死刑論(今回は下ネタも冗談もなしです)

pancho2007-12-12

こんにちは、パンチョです。タイトルとおり今回は下ネタも冗談もなしです。マジです。重いです。



僕はいろいろなことについて考えるのが好きなのですが、ついこの前死刑の是非について自分の立場を決めたので発表してみます。ちなみに僕は法学には疎いし、死刑について調べまくったわけでもありません。僕のちっこい脳みそと持てる知識をもって、命とか生き方とか人生とかについて思考を巡らせた結果の結論です。もちろん今の時点での、ということになりますが。



僕は死刑は廃止すべきだという結論に至りました。



僕はこの思考以前は「生きてても仕方ない奴は全員死刑!」とコマワリくんのように考えていました。人を殺してもなんとも思わない殺人鬼、連続強姦犯、悪そのもののような人はいます。彼らを世の中に野放しにすることはもちろんできないし、生きていても何ら生産的で世の中への善はなされず、終身刑に処すれば彼らを管理する税金が投入するだけムダ金と思っていました。



しかし思考の末に逆の結論に達したのはいくつかの原則があるのではと考えたからです。



最初は倫理的な立場で「人は人の命を奪う権利はない」と考えました。まずはこの原則に立ちました。そう思うのは「人は死したものに命を与えることができない」からです。これはガンダルフの言葉から引用しました。どんな状況にあってさえ、この原則は絶対的なものと思います。



次には法学的な立場で「法はその国民の命を守るものでなくてはならない。そしていかなる場合も法によって国民の命を奪うことができない」いう原則があるのではないかと考えたのです。その原則を破れば為政者によっては人の命を軽んずる法ができてしまいます。また人が人の命を奪うことができなければ、人が造り出した法はまして人の命を奪えないはずです。



基本的に以上2つの原則から、死刑は廃止すべきとの結論に達しました。でも現実はそれほど単純ではなく、また人々の思いと感情は複雑です。僕らはできることなら人を恨んだり憎んだりしないで生きていきたいと、ほとんど全ての人が思っているのに。テロルが消えないように、悲しみの連鎖はさらなる悲劇を生み出していきます。



光市母子殺人事件や宮崎勤の事件などは本当に傷ましく、そのことを考えると憂鬱になるほどです。被害者の感情は想像以上のものでしょう。被害者や被害者の家族には加害者には「死をもって償って欲しい」と思っている人も多いと思います。僕が先に挙げたような事件の被害者、また被害者の家族であるならその加害者に死をもって償わせることと思います。そしてこのような事件さえ起きなければ知り合うこともなかった、またもしかしたらもっと幸せなかたちで会うことができたかもしれない人々に悲しみが広がります。その復讐は自分の気持ちを少しでも晴らすことができると思いますが、それ以上の悲しみを今度は自分で受け止めなくてはなりません。



それでも国としては全ての国民の命を守らなくてはならないと思うのです。金持ちも貧乏人が両方とも命が守られるように、犯罪者もまた命を保障されるべきだと思います。国によって命が奪われることは許してはならないと思います。その原則を崩すことは天安門事件のような悲劇を許すことにもつながりかねません。



ではそうだとして「死んでもしかたない奴」が生きていくことに価値があるのでしょうか。僕にはわかりません。死んでもしかたないのなら生きていても同じなのかもしれません。でも生きていたらなにかの善を施すかもしれません。生きていたら死ぬ直前に深く反省し、被害者のために涙を流すかもしれません。



その犯罪者だって、犯罪者のほかは普通の人間です。テレビを見て笑うことだってあるだろうし、ゴミをきちんと分別してるかもしれないし、人に「二日酔いを早く治す方法」を伝授したり、コンビニのレジで釣り銭を募金箱に入れてるのかもしれません。人間は多面的で矛盾したいくつもの顔を持っています。犯罪者の姿はその一つにすぎません。僕は人が好すぎるのでしょうか。



でも先に述べたように僕なら犯人を自分の手で処刑します。殺人の罪はもちろん受け入れます。それでも気持ちが晴れることはないでしょう。むしろ殺人者となった自分に嫌悪するかもしれません。それでも国によって命が裁かれることは良しとできません。



では死刑はないとしてどういった刑を科すればよいのでしょうか。本当ならダルマにでもして一生を送らせたいところです。でも冤罪の可能性もあるし、さらに残虐な刑罰は死刑以上にしてはいけないことです。やはり終身刑しかないのではないのでしょうか。一生のうちに自分の犯した罪を深く反省し、自分の命はなんのため与えられ、そして何をなして死すべきなのか考える時間を与えるしかないでしょう。その罪を本当に理解したとき、犯罪者と被害者になんらかの救済があるかもしれません。いや、無いのかもしれません。現実はそれほど単純ではありません。



世界は時に明るく、同時に暗く、悲劇と喜劇とコントとドラマとエロビデオと戦争映画と将棋と政権放送と植樹祭の模様とど根性大根というふうにスカパーのチャンネルが全部一度に放送されている以上に混沌としています。殺人事件の報道を見て悲しくなって、風呂に入ってリフレッシュしたところで金持ち一家が次々と殺される2時間サスペンスで誰が殺人犯かで盛り上がり、寒いのでコタツの温度を強にしながら地球温暖化問題のドキュメンタリーを見て、アイドルとセックスする夢を見て、また起きて満員電車に乗って痴漢を目撃して捕まえて、そう思ったら人身事故(飛び込み自殺)で電車が止まり「死ぬなら他で死ねよ」と思い、会社にやっと着いたら遅刻で上司に怒鳴られてまた「こいつ刺されて死ねばいいのに」と思い、昼食には大好きなカツ丼を食べて、午後から行く取引先のお気に入りの受付嬢に何て話しかけるか考えて、取引先では接待話で盛り上がり、やっと帰宅したら政治とカネの問題の報道で憤り、奥さんの笑顔と子どもの寝顔に癒されて…。



それでも僕には世界を抱きしめる選択しかないように思えます。マザー・テレサのようにはなれないけれど。



最後に付け加えると基本的に僕は性善説に拠っています。